「アウドルフ ガーデン」に迷い込んで

ピート・アウドルフへのインタビュー

ドイツのヴァイル・アム・ラインに広がる「ヴィトラ キャンパス」、その敷地内に拠するヴィトラ製品のショールーム兼ショップである「ヴィトラハウス」の前に新しいガーデンが姿を現しました。それは、オランダのガーデンデザイナーであるピート・アウドルフが設計と植栽計画を手掛けた「アウドルフ ガーデン」です。ニューヨークにある、高架橋を利用した遊歩道のハイラインの植栽を手掛けたことで世界的に注目されたピート・アウドルフ。彼の手掛ける独自の植栽計画は、その地域に自生する植物と繰り返し開花する多年生植物を基礎としています。


本当であれば、あなたも私も、ゴム長靴を履いてともに牧草地のような新しいアウドルフガーデンを歩いているはずでした。しかし、突如世界中を襲ったCOVID-19の感染拡大とロックダウンにより、私たちは、今、家から出ることができずコンピューターの前に座っています。非常事態ともいえるこの時、どのような時間を過ごしていますか?自宅の庭で過ごす時間は増えましたか?

そうですね。今は自宅で仕事をしていますが、家も私も庭に囲まれているので、もっとともっと庭に出ていたいところですが、自宅でもやるべき仕事がたくさんあります。この機会に、過去40年間貯めてきた庭や庭園、植栽のデザインと図面を整理し、アーカイブする作業に着手しています。すべてをスキャンするのに3週間以上かかってしまいました。

進行中のプロジェクトも多く抱えていますね。そちらの進捗にはどのような影響がありますか?

プロジェクトによって状況はさまざまです。植物がすでに植えられているので、放っておいて大丈夫な案件もありますし、デトロイトで進行しているプロジェクトは植え付けすらできていません。残念ながら、今の状況下では、現地に赴いて私が直接監督することはできません。しかし、幸い、信頼できる仲間やプロジェクトパートナーがいて、彼らは、私の植栽計画を深く理解し、さらにそれを実行するだけの知識を持っています。植木鉢から芽を吹いたばかりの時はまだ、植物はすべての姿を見せません。その段階から、それぞれの植物の違いを認識できる専門家はそう多くありません。素晴らしい仲間との関係を頼もしく、嬉しく感じています。

ヴァイル・アム・ラインのアウドルフガーデンでは、最初に植えた植物達があと数週間で季節を終えます。来年の春はどのようになっているでしょうか?

そこまで長い期間待つ必要はありませんよ。ヴィトラハウスの前のガーデンは、繰り返し開花し芽吹く「多年生庭園」ですが、比較的成長と循環が早い植物を選んでいます。天気と気候に恵まれれば、9月頃にはまた美しいガーデンの姿を見ることができるでしょう。

ヴィトラハウス前に広がるガーデンの特徴は何でしょうか?

まず、ヴィトラの会長であるロルフ・フェルバウムや担当者と度重なる対話を通し、私の仕事を象徴するいくつかのデザイン的なこだわりについて深く理解してもらい、共感を得ました。私は、最初に、それぞれまったく別の体験を提供する3つか4つの異なるゾーンに分けて植栽したいと考えました。庭をただ通り抜けるだけでなく、庭に迷い込んでもらいたい、そう思ったからです。それが、直線ではなく、終わりが見えない曲がりくねった小道を作った理由です。あなたは、小道の角を曲がるたびに別の風景に出会い、自らで次の歩みを決めることができます。右に進むか、それとも左に進むのか?

バロック時代に作られた、庭園迷路のようですね。しかし、ニューヨークのハイラインやイギリスの「ハウザー&ワース サマセット」の庭と比べたら、ヴィトラのアウドルフガーデンは、今はまだ、まるで荒野のように見えます。

多くの人が荒野としか思えないもの。それこそが理想です。荒野こそロマンであり、それを現実にしたいと思っています。しかし、私が作る庭は、実はまったく野生とはいえません。設計図には、私がすべての植物をいかに精密に構成し、どこに配置されているかが記されています。

野生や自然性をどのように創り出すのでしょうか?

大きすぎる構想は必要ありません。だって植物ですから。植物こそが主役です。アウドルフガーデンには、約30,000もの植物を使用していますが、これらもまた野生の植物ではありません。1960年代に野性的な庭園を良しとする風潮がありました。その時に流行った植物は、栽培されたものでありながら野生の植物に勝る強さと繁殖力がありましたが、結局、強さと繁殖力ゆえにそれ以外の他の植物を侵食し、除草すら難しいという事態になりました。30年以上前、私と妻、そして友人のヘンク・ジェリッセンを含む数人で、今までわざわざ庭に植える植物とは認識もされていなかった「草」を世の中に紹介する活動を始めました。例えば、牧草地では当たり前に見ることができたけれど、誰も庭にあえて植えようなどと思いもしなかった草たち。それらは野生的でありながらも、身の振り方を知っていて慎ましいのです。

どういう意味でしょうか。もう少し詳しく教えてください。

植物には、それぞれ特有の長所短所、育つのに好む場所があります。しかし、ひとつの植物のために他の植物を駆除したり制限したりすることはすべきでないと考えています。庭内のバランスが崩れるからです。それはまるでひとつのコミュニティや、奏者が集まってアンサンブルを奏でるかのように、あらゆる植物にそれぞれの役割を与え、うまく連携させることが大切です。個々が独自の方法で役割を果たしつつ、最終的には大きな演奏として成り立つことが大切なのです。

まるで人間のことを話しているようですね。

私は、植物の中からたくさんの学びを得ています。植物それぞれが魂と個性を宿し、唯一無二の外見と性質を持っていることを知っています。私はそれぞれの植物の違いと個性を活かして、ひとつの構成としてまとめあげます。このガーデンにおいて、一年を通じて、非日常的なうっとりするような体験を提供するために、常緑の植物と、枯れては種をこぼしまた開花する種類の植物とのバランスを大切にしています。

バランスという観点から質問します。世界的に著名な建築家による個性豊かな建築物が立ち並ぶヴィトラキャンパスという環境において、あなたが作り上げたアウドルフガーデンははどのような存在であると考えますか?

私が庭を設計する際、建築物との対比やバランスを考えることはありませんし、庭は建築物の周囲に配置するものとも、逆に庭が中心であるべきとも考えていません。それらはすべてが補完し合うものだからです。空から地上を見下ろした時に、建築物、庭、植物すべてが絶妙なバランスの上に成り立つ新たな景観を開くこと、それがもっとも大切です。

都市でのプロジェクト、郊外の田舎でのプロジェクトのどちらが好きですか?

それぞれに異なった魅力があります。「ハウザー&ワース サマセット」は、郊外のいわゆる田舎のど真ん中にあり、それは大変うまく機能しています。しかし、都市部でのプロジェクトの方が、はるかに強い反響があるように思います。ビルに囲まれた都市環境とのコントラストが強く、よりたくさんの人々の目に触れる公共スペースであるということもその理由でしょう。私は多くの人に見てもらいたいと思っています。アートのようなものです。個人の家に隠しておくのではなく、せっかくなら美術館でたくさんの人に見てもらいたいのです。

オランダの郊外、フンメロにあるあなたの自宅の庭もまた、近くに住むたくさんの人たちを魅了してきたのではないですか。

確かにそれはそうです。しかし、自分の庭の外では、まったく異なる環境、クライアントの希望や制限、興味などが必ずあります。それらは私にとっての戦であり、刺激となります。新たなプロジェクトは私の遊び場です。何百万人もの人の目に触れる場所に思い描いたアイデアを実現できるとしたら、こんなに楽しいことはありません。

どうしてそう思えるのでしょう?

私が大切にしていることは、人々が私の庭を写真で見るだけでなく、庭を実際に歩いたとき、私が構想した体験ができるかということです。体験の引き金となる感情に興味があります。私はいつでも植物に心を揺さぶられますが、パンデミック最中の今、その傾向はさらに顕著です。今朝、私は外に出て目にしたものすべてに深く感動しました。私の感受性が、植物とともに長く働ける理由かもしれません。植物は自らが表現者でもあり、第三者に強い感情を沸き起こす引き金でもあります。

あなたの熱狂的なファンである、アートギャラリーのオーナーのイワン・ヴィルト(Iwan Wirth) やキュレーターのハンス・ウルリッヒ・オブリスト(Hans Ulrich Obrist) は、あなたをアーティストと捉えています。ご自身でもそう思いますか?

他人が私を何と言おうと任せます。私をただの庭師に過ぎないと言う人もいれば、私の作品は芸術だと言う人もいます。しかし、確かにアートと私の作品にはいくつかの類似点があります。私はアイデアや視点、美学、哲学など、人の心に影響を与えるものを実際に触れることができる方法で作り上げます。さらに、私の作品は流動的で可変的です。私の仕事に終わりはありませんが、いつでもそれは、何かの始まりなのです。絵を描いて壁に飾るのではなく、絵を描き、さらにそれを成長させたのち朽ち果てるまで、それが私の仕事です。

流動的で可変的なあなたの「絵画」を欲しいという人や、プロジェクトの依頼ははますます増えていますね。その状況をどう思われますか?

どうしてこんなに注目され、夢見ていたことすべてが現実になったのか、自分でも不思議に思うことがあります。時間の経過とともに作品が変化するという点は、今の時代に合っていて、私には追い風だと考えます。例えば、都市部ではガーデニングやサステイナブルをうたう農場や牧場への人気が高まっています。私たちは、環境についての常識を改める必要性に迫られています。私が積んできた経験は、現代の状況においてとても有効です。1980年代に私が夢見たのは、常に人が手をかけなくても資源効率が良く、野生的でありながらも美しく艶やかで、どんな人の心をも揺さぶる、そんな庭づくりでした。花が咲いていないからといってすぐに引き抜かれてしまうことはなく、当たり前の「美」からはみだした植物たちを受け止める、その余白ある庭園です。

あなたの作品の背景に、サステイナビリティへの主張や政治的なメッセージが込められているという見方もあります。

振り返ったらそう見えたとしても、私自身は環境保護やサステイナビリティについて、意図的な主張をこめてきたわけではありません。今も、私は人々にどうこういうつもりもありません。しかし、私の作品から植物に対して興味や関心を持ってもらえたら嬉しいです。私は主義主張よりもインスピレーションに頼ってきた人間です。過去30年間、私は伝統的な造園やガーデニングに代わる、新しい何かを生み出したいと考え続けてきました。私のプロジェクトや書籍が、現代、そしてこれからの人々の庭に対する考え方に影響を与え、更なる一歩となることを願っています。

なるほど。突然の成功ではなく、あなたの持論を貫いてきた結果なのですね。

確かにそうかもしれませんね。しかし、すべてが計画通りであったわけではありません。若い時、両親が営んでいたバー&レストランで雑用をした後、25歳になり、庭に関わる現職を選びましたが、それまで植物のことをまったく考えもしなかったのです。1982年、妻と私は経済的な理由から苗床をはじめました。それから1996年までガーデンデザイナーとして正式な依頼を受けたことがありませんでした。最初は、ただただ目の前の仕事を一生懸命にやっていただけでした。私が自分自身をアーティストと呼ぶことに抵抗を覚える理由の一つはそこにあるかもしれません。

他のアーティストとの明確な違いは、作品への介入に対してオープンであることだと思いました。ある時点がきたら、あなたの庭の世話を第三者にすべて託すことになります。どのような想いですか?

私はいつでも、庭がある程度完成するまでを見守り、数年後にどのような状態になるかを構想しています。同時に、私はそれが絶えず進化することも知っています。放っておけば枯れて消えてしまう植物もあれば、植え替えてやらなくてはならない植物もあります。庭は自己完結型の作品とは違います。この庭の対する考え方の基本を共有している人に管理を任せれば、第三者が介入しても自然の変化を経ても、庭の維持は簡単です。いつの日か私の姿は消えても、庭は生き続けます。私はこれまで、植物を深く愛し、植物を扱う仕事を誇りに思うたくさんの人たちとともにプロジェクトを重ねました。私の最も幸運な成功は、彼らとともに歩めたことです。

Publication date: 20.5.2020
Author: David Streiff Corti
Images: © Dejan Jovanovic

This might also interest you